深い悲しみに包まれた金曜の夜、私は少しでも心をやわらげるために、普段とは違う駅に降りてみた。

窓辺の女性 エッセイ

 もしも私が健康な人間ならば、今、もっとほっとして穏やかなしあわせを感じているのだろうな。ファミリーレストランでゆっくりと食事をしながら私は思った。金曜日の晩。白熱灯の色が温かく、上品な風景。お肉の焼けるにおい、にんにくのいい香り、一人の人、友人と語らう人、そんなに楽しくなさそうな顔をしたご老人、人々がしあわせそうに見えた。

 このあいだ帰り道に降りた駅に、今夜は用もないけれど寄った。悲しみが深く、明日は土曜日なので、まっすぐに帰らずにワンクッションとも呼ぶべき時間を過ごしたいと思った。いつもと違う環境にいったほうが、心が癒されるかなと、自分を休ませにいった。

 あまり見ないような駅周辺のつくりにわくわくしながら、一通り見てみたくてとりあえずぐるりと歩いた。多分あと10分くらいで閉まる雑貨屋や、もう閉まっているかもしれないけれどまだ明るい、人気のない店も通りすぎた。

 一軒だけ立ち寄ってみた。駅のすぐ向かいの店で、先日ここを見てみたいと思った。今日はここをちらりと見られたらいいと思った。

 その店には女性向けの美しい服や雑貨が売っていた。美しく魅力的だけれども、必要はないから手に入れたいという欲求があまり湧かない。ただ、私は思った。いつも商品を「高い」と思っているな。20歳のころから変わっていないなと、悲しみの深い夜は、それが「悲しいこと」になった。元気なときは、同じ認識でも悲しいことではない。悲しいときは、専用のフィルターがかかったように世界の見え方が悲しい。今夜の景色は、悲しい。

 夜道を歩くとき、朝から涼しかったなと今朝感じた変化を再び思い出して、秋の夜風に心地よさを感じた。ああ、気持ちいい。この感じは悲しくない。ただ、ほんの2か月前に過ごしたただの日常が夜の景色に重なって、ああ、懐かしいと思った。寂しかった。

 交差点で虫の声を聞いた。こんなところで。

 焼き鳥のにおいに誘われて、煙がもくもくしているお店を突き止めたけれど、窓越しにおじさんたちの頭が見えたから、場所を突き止めるだけにしてファミレスに入った。そういうお店に入ることは、私にとってはアドベンチャーだから、入るのは今夜ではない、と思った。エネルギーが必要なのだ。

 どこにでもあるファミレスに入ったけれど、いつもの一番安いファミレスではない。少し豪華なハンバーグと海老フライとカニクリームコロッケの盛り合わせを頼んだ。レストランはそんなに安くはないけれど、けっこう賑わっている。みんなお金持ちだなと思った。数百円の節約でお米を頼まなかった。お腹もそこまで空いていなかった。そういう理由があっても、節約を意識していることがその夜は悲しかった。ずっとこんな毎日だなと思ったからだ。私が見ているのは今夜の一点だけでなく、これまでと、これから続くであろう日々のことなのだ。これまでも、いつまでも、いつまでも…。

 若い女性が案内してくれて席について、食事が届くまで本を読んだ。難しい本ではないけれど、私は本を読みながら、いつか、喫茶店で見かけたしゃきっとしたグレイヘアの女性を思い出した。その人は知的で自立した女性のステレオタイプのような人で、とても印象に残った。欧米ならどこにでもいそうなんだけど、日本では見かけない、感じない空気感をまとっていたせいだと思う。

 私は本を読んでいるあいだ、そのグレイヘアの女性に自分を重ねた。一瞬の姿しか知らないけれど、その女性を見たときに受けた印象で、自分もいつかああなるかもしれないというモデルのように心に残った。あのときよりも年をとった今の自分は、以前よりも記憶の中のグレイヘアの女性に近づいている感覚がした。
 けれどもすぐ考え直した。あの人は、もっとしゃきっとして、背筋も伸びていたな。迷いがなさそうで、憂いも感じなかった。自分の背中を見たことがないけれど、多分少なくとも今夜の私の姿は、グレイヘアの女性とはまったく違う印象を持っているだろう。すぐにそう気づいて、考え直した。

 案内してくれたのと同じ女性が食事を運んでくれた。私は見上げてお礼を言った。そのとき、私は自分より若い、ただの店員と客という関係性のその人に、自分は少なからず「笑顔」という愛を求めたのかな、と感じた。寂しいのかな、と思った。

 ゆっくり、たまねぎのひとかけら、付け合わせのポテトの一本、ゆっくり、フォークとナイフで口に運んだ。今夜は急ぐこともないのだから、と無意識に思ったのかもしれない。
 おいしい。でも、私の世界は、とても悲しい。深く悲しい。

 若い頃、mixiをやっていた。友人が書いた、寒い冬の夜に外で一人で弁当を食べる男性をかわいそうに思ったエピソードを思い出した。「やっぱりご飯は誰かと一緒に食べなきゃ!」と彼女は愛情深く善良に訴えていた。私はあのときの、自分の心が冷めるような、さーっと引くような、同時に静かに熱く怒る気持ちを、悲しみの中に思い出した。「どうしてそういう視点しか持てないんだろう?」

 子どもの頃、「一人はよくない」「一人ぼっちは寂しい」とアニメで学んだ。だけど、その視点が私を追い詰めていった。私は、「大人が求める健全な子ども像」からは離れていて、周囲の力のある大人たちから自分を受け入れてもらった、と感じたことがなかった。

 なんだか、この深い悲しみはいつも懐かしく、優しく、「おかえり」と言っているようだ。私の基盤は悲しみなんだと思う。どんなに頑張って、どんなに普段明るく、それが自然なときがあっても、私の穏やかで温かい悲しみは、私を受け入れてくれる大切な場所でもありそうだ。

 もみほぐしのマッサージを思い出す。気持ちよさが、身体に伝わっていく感じ。悲しみもまた、浸透していく。深く、根深く、私を離さない。世界がどんなに広くても、これが私の個体で、私の物理的な感覚で、私の目から見える世界なんだな。
 私は、視点を変える技術を持っているから、悲しみも愛おしい。ゆっくりしたい。ゆっくり悲しんで、休まないと、元気にはならない。悲しみには、理由があるのだから。様々な物事の関係の中で私は生きていて、今日の出来事も、昔の出来事も、私とその物事の両方があって起こったのだ。

 白熱灯の優しい色が照らしている、金曜日の夜。私の目には、涙がたまった。流さないようにはしたけど。ゆっくりと、おいしいな、と思いながら食べた。そして、自分が老人になった未来を思い描いた。多分、今と同じ深い悲しみをこのまま未来に持っていくんだろう。20年後、生きていたら、今日と似たような金曜日の夜を過ごしているかもしれない。そう思った。そして、私はしゃきっとしたグレイヘアの女性とは違う、今の私が年をとった、私らしい老人になっているはずだ。それは全然、悲しくない。



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