1
月曜日の正午、絢は休みを取って最寄り駅に向かっていた。踏切の向こうには、絢にはその人とわかる背丈と髪型の男性が、背を向けて立っている。かっちりとしたジャケットに、ジェルをつけて整えた短髪の。「見つけた」と絢は小さくつぶやいた。男性はこちらには気づいていない。
絢は小走りで踏切を渡り切り、「こんにちは」と背を向けている人物に元気よく声をかけた。
「やあ。ごめんね、連絡がなかなかできなくて」振り返るなり謝罪をする亮は、明らかに顔色が悪い。
「こちらは大丈夫だけど…なんだかすでに疲れていそうね」と絢は亮の顔を覗き込んで、呆れるような心配なような複雑な気持ちになった。
「ずっと忙しくてさ」マフラーに顔を埋め、申し訳なさそうに目元をくしゃっとさせた。
「そうだったみたいね」
「繁忙期でさ。休憩もとれないし家に帰ると爆睡しちゃうんだ」亮はさらに申し訳なさそうに目を細め、眉間に細い指を当てる。
「忙しいのに遠いところありがとうね。お疲れさま」
絢は複雑な思いがしたが、表情を緩めた。絢は今日のために有給休暇を申請していた。それは権利だから無理なことではない。ただし、少し気を遣う場面でもある。
「本当に住宅街って感じだね」亮はあたりを見まわして言った。
「そうでしょう」と苦笑いして、だから言ったでしょ、という言葉を絢は飲み込んだ。亮が絢の住んでいる街を見てみたいというので、この日は落ち合うことになったのだが──あれほど、何もない街よ、と言ったのに、と絢は思った。それより、今日絢は、「部屋に遊びに行きたい」と言われないかが気がかりで、はぐらかす方法をこっそりと用意して胸の内に忍ばせて来ていた。
「連絡しておいたカフェなんだけど、こっちの方向みたい。私も初めていくの」絢は心の内をそっと奥にしまって、さっき自分がやってきたのと反対の方向──前方を指さした。絢は、お人好しをなんとかやめたくて選択に迷うことがよくある。亮の隣でそんなふうに感じている気持ちを少し疎ましく思い、気づかれていないだろうかと亮のほうにちらりと目をやった。
二人は小さな駅前の小さな喧騒を離れ、住宅街の中を歩いた。少し風が冷たい。秋が深まりつつある。絢もまだこの周辺には来たことがなくて、少し新鮮な気持ちになった。こんなところにカフェがあるのだろうかと、通り過ぎてしまわないように、一軒一軒に注意を払いながら。
「あ、ここみたい」目当てのカフェを見つけると、絢は開かれた門の前に進んで敷地内の様子を伺った。「やっていそうだね」
カフェは周辺の住宅街に行儀よく溶け込んでいたけれど、洋風の門の手前には、手書きのメニュー看板が出ており、注意を払っていれば見逃すことはなかった。
「へえ、こんなところに」亮は珍しそうにつぶやくと、メニュー看板に近づく。「どれどれ、今日は若鶏の香草グリルと、和食のほうはサバの味噌煮定食なんだ」高級フレンチに勤めている亮は、店やサービスをよく観察したり、メニューをじっくりと読む。いつも何かそこから学ぶべきことでもあるかのように。
門の向こうには店のエントランスまで石畳の小道が続き、脇の芝生にはパラソルと、少なくとも今日は使われていないであろう庭用のダイニングテーブルと椅子があった。もしかしたら、春になったらこの庭は、もっと花が咲いたり、植物でにぎわうのかもしれない。庭に面した大きな窓からは、店内の明かりが見える。
一通り様子を伺うと、二人は石畳の小道を踏んだ。一瞬芝生のにおいがかすめた。絢が店の緑色に塗られた引き戸を開けると、引き戸は木がこすれる音で店主に来客を伝えた。「いらっしゃいませ」と挨拶をしたのは白髪で、きりっとした老婦人だった。
こじんまりとした店は満席ではなかったが、常連らしき中年の女性客でいくらか席は埋まっていた。中央に相席用の丸い大テーブルがあり、壁際と窓際に二人掛けの席が一組ずつと、カウンター席がある。すでに忙しそうな老婦人が、窓辺の席へどうぞと、カウンターから案内をした。二人はこじんまりとした窓辺の二人掛けの席に着いた。窓は閉まっているけれど、芝生と庭の植木の緑が見え、さわやかな雰囲気の席だった。
2
「絢ちゃんは、結婚をしたいと思っているの?」二人はともに若鶏の香草グリルを注文し、料理を待っていた。そのあいだ、亮は率直に尋ねた。
「そうね…どうかな」と絢は言いつつ考えた。「結婚のために誰かに出会おうとしている段階ではないかな。結婚相談所の人に忠告を受けそうな回答だけど、順番がね、結婚のために出会ってっていう流れだと、いまいち意欲がわかないの。だから日常で出会わなければ、この先も一人かな」絢は丁寧に回答した。「それに、今から出会って、結婚となってその人に自分の人生を合わせるのって、なんか大変そうだなってちょっと思っちゃうのよね。きっと合わせなきゃいけないのが自分だって思い込んでいるのよね。今は自分のペースで生きられるほうを優先しているのかも」
「確かに、相手に合わせるって大変なところあるよね」亮は俯いてじっくりと頷いていたが、顔を上げて言った。それから窓の外に視線をやって、また絢のほうを見た。「どんな人が好き?」
「え、うーんそうだなぁ…」絢はそれについてはよくわからずに、しばし視線を落としてからおもむろに答えた。「よくわからないけど、私を理解してくれる人」我ながら、凝縮されたいい答えだと思って亮の反応を見守った。
「へえ…」しかし、亮は少し微笑んだだけであまりピンときていないように見えた。
「亮くんは結婚しないの?」絢は質問を返してみることにした。興味がある。
「そうだな、チャンスはあったんだけど」
「え!」絢はまっすぐに亮を見つめ、少し身を乗り出した。
「店の常連さんで、二十代の若い女性だったんだけど…」
「え~!」
「でも、なんでかなぁ、断っちゃったんだよね」照れくさそうに笑い飛ばす。
「なぜ?!」
「なんでだろうね…自分でもわからない。タイミングとかかな」
「それにしても二十代とは、若い方にモテるんだね」
「いやびっくりしたよね」と亮はさっぱりと、また照れくさそうに笑って窓の外を見た。
「絢ちゃんはこれからどうなりたいの?」亮は視線を戻し、絢に尋ねた。それは若い頃の、「将来の夢はなんですか?」という響きに似ていて、絢を不安な気持ちにさせた。亮はとても気軽に聞いてくるけれど、本気で答えたら、長くなりますけど?もしくは、そんな正確にわからない、と少しだけ怒りたかった。亮にではなく、そういう定番の質問に対して。
絢は誠実に答えると、文章が長くなることをこの場で学んだ。女同士でも、久しぶりに会ったらこんな話をするものなんだろうか。それとも、亮は自分に望んでいるものがあるのだろうか?わからないけれど、まるで、あなたはいったいどんな姿勢で生きているのですか?と問われているみたいだ。オブラートに包まない率直な質問が、いとも簡単に長いあいだ張られていたバリアのようなものを突き抜けるのを感じた。亮に聞かれることには、正直に、できるだけありのまま答えてみたいという好奇心が湧いていた。定番の質問に慎重に自分の言葉を選ぶとき、整体師に筋肉をほぐされるような感じがした。
3
「いつの間にかいい年になっちゃったな」と亮。
「そうだね」
「完全に婚期を逃した。もう俺は仕事しかしていないよ」と悔しそうに、でも笑いながら顔をくしゃっとした。
「それはすごいことだよ」
「絢ちゃんは今の仕事続けるの?」
「どうかな。何も決めていないよ。気持ちがどう変わるかわからないからね。亮くんは長いよね」
「そうだね。引き抜いてもらってから、今の店ではいろいろ経験したよ。パティシエがいなかったときには自分がデザートを担当させてもらってたこともあったんだ。今は新しいパティシエが来て、自分はウェイターに専念しているけど。ワインの知識とかも必要だし、奥が深いよ。アルバイトの学生に教えるのも大変だけどね」
「きっといい上司をやっているのね」
「どうかな、いろいろ伝え方なんかは気を付けて、ずいぶん改善したところもあるよ」
絢はしっかりと着実に経験を積んでいる亮を立派に思った。窓越しにパラソルを見つめながら、ウェイター姿の亮がテーブルについて料理の説明をしている場面を思い浮かべた。それからシェフや、学生のアルバイトの子たちに何か伝えている姿を、ぼんやりと想像した。
自分のキャリアを振り返ると、いつも誰かが動きやすいように一歩下がっており、様子を見ている絢がいた。どこか、自分が平熱を保てるように、あるいは場の平熱を調整するように挑んできた記憶が広がっている。でも絢は、その平熱のような庭の気温と、そこで育つ植物が嫌いではない。亮のようにがむしゃらで、華やかで、人が注目するものではなかったけれど。
緑色の引き戸が再びがらんがらんと音を立てて帰りの挨拶を届ける。二人は白髪の老婦人に御馳走さまでしたと伝えてカフェを出た。
「素敵なお店だったね」絢は後ろで戸を閉めてくれた亮に言った。「おいしかった、ご馳走様でした」
「いえいえ。おいしかったね。さて」と亮は目をこすりながら片手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「絢ちゃんの家はどのへんなの?」ふいに亮がこちらを見つめた。
絢は悪い予感が当たったような気持ちになり、動悸が一瞬だけ速くなった。視線が上下に動き、焦点を合わせないまま答えた。「駅の反対側のほうよ」それで一瞬言葉に詰まったが、「じゃあ、公園に向かおうか」と続けた。
「そうだね」と亮は変わらない調子だ。そこからは何も気持ちが読めなかった。
二人はバス停へと歩き始め、絢は後ろで手を組んで、足元を見つめながら別の話題を探した。
「なんか眠くなってきたね」亮はまた目をこすり、くしゃっと笑ったような目元でこちらを見た。
「そう?」それはどういうことだろう?と顔の筋肉が一瞬こわばったが、「公園をのんびり歩いてぼーっとしよう。晴れているし、きっと気持ちいいんじゃない?」と柔らかに伝えた。
昼下がりの日差しが心地よく降り注ぐ。冬に向かう空気が、日差しの最盛を知らせているようだった。落ち葉が足元で音を立てる。
二人はバスを待っているあいだ、晴れやかな空を見上げた。確かに眠たくなりそうな昼下がりだった。
バスが到着すると、二人は乗車した。バスは隣町へと出発した。