根無し草

 久しぶりに人と会話をしたあと、外の世界と関わったあと、自分が守っている小さな世界に、いつもとは違う風が吹く。生暖かい。ちょうど、春の始まりの今日の気温みたいだ。
 そんなとき、何かと関わりを持つことへの安堵と充足感、そして自分の巣へ戻る安心感からほっとして、張っていた糸が緩む。そんなとき、普段は見ないスーパーのお総菜コーナーに立ち寄り、血糖値の上がりそうなお弁当を買ってみる。
 春が近づいて、鉛のように眠っていた体が、少しずつ起き始めたのをいいことに、調子に乗らないように。そう忠告はしておくが、元気な日は元気で過ごす。でも、ほとんどの場面で、あとで自分が困らないようにだけしておく。そのほうが楽だからにほかならない。私はめんどくさがり屋だから。
 お弁当を食べ終わって、久しぶりに何もしない午後を過ごす。コーヒーを入れて、ぼんやりと音楽に耳を澄ます。戸川純さんの「さよならを教えて」が流れてきた。フランス語版を探しているときに見つけたものをリストに保存したのが再生されているようだ。この曲を、いったいどのように受け止めていいか私は知らない。ただ、真面目さと迫力でくすっと笑える。それは聴き方を知らない人の聴き方の可能性があるけれど、もう少し謎のままにしておきたい。なんでも解説を求めると、そこで終わってしまう危険があるから。
 案の定、血糖値が上がってベッドに横になる。曇りの日だって、だんだんと窓の外の明るさは落ちていく。電気をつけていない部屋は徐々に暗く冷たい色になり、毛布の中から、控えめに散らばるプリズムを眺める。こんなに曇っていても、雲の隙間から太陽が差し込んでいるのだろうか。そんな目安として微かな揺れを見守る。
 私が関わる人々は、それぞれ、自分の居場所を持っているな、と、その人の日常を想像してみる。そんなとき自分はまるで根無し草のように感じて、種類が違うように感じる。事実、同じ種の中でも分かれているのかもしれない。私はどこで何をやってきたのだろうと、いろんなことが遠く感じた。かなり長い時間、いろんなことをやってきたけれど、私には居場所がないように感じた。いつも自分で見つけて飛び込んでいったけれど、その世界の住人にはなれなかった。
 いろんな気持ちが胸のあたりにつっかえて呼吸が少し苦しくなる。何故そうなのかは問いかけてもあまり意味がない。意味がないというよりも、「何故」は見つからない。そう生まれて、そう育った──以上。ではないだろうか。ただ、時には呼吸が苦しくなり、「何故」は見つからなくても、この現実に対処していく行動は求められるのをわかっている。悲しみとか、忍耐とか、人に見せてはいけないと感じるものを、どうも自分にも隠している気がする。今、血糖値を落ち着けてもう一度起き上がるために、今日の残りを過ごすために、はいはい、と深くて重たいものを、軽くあしらう。自分がされたら嫌でしょうに。
 とりあえずは「二十五年間お疲れさまでした」、と自分をねぎらった。それ以上その深みに落ちていくのは、今ではない気がした。
 根のない自分を、以前は異質に感じてきた記憶がうっすらと残っているけれど、今は生き方の違いのように考えた。だって私にはもう、何かの基準に合わせる体力がないのだから。私は固定されることが好きではない。じゃあ、仕方がないか。
 どこか遠くへ行きたくなった。そうだね、新幹線か飛行機で本州を抜け出してもいい。どこか遠くへ。どうせ根がないのなら、見たいものを見て、感じたいものを感じてこようよと、春にのせられているのかもしれないけれど、そのような思考がとおりすぎた。

コメントする

CAPTCHA