桜の季節は不思議なもので、あいにくの雨や曇りが多くなりがち。
予定日と前後の週間予報をチェックしながら、雨マークの多さに、「なぜ今週なの?」と動揺する。
一方、AIは発達しても天気を動かせないことに安心もする。
ニンゲンにざまぁみろ、と言いたい私は、そういう無力感は嫌いじゃない。
それに、残念がっているのは全国で私一人ではないという心強さもある。
それでも実際に日が近づくと、意外とお天気はもってくれたりする。
私が晴れ女というわけではなく、もちろん自然の勝手だが、それとも本当に、誰か強力な晴れ女でもいるのだろうか。
──三月末のこと。
日曜日は見事にお花見日和になって、ベッドタウンにある公園へのお花見は決行されることになった。
午前中に家族と駅で待ち合わせをして、そこからさらにバスに乗り継いで目的地へ向かった。
上野公園や新宿御苑、遥か都心部はどんなものか、と想像しつつ、ブランド力にそこまで興味のない私たちは、桜がゆっくり見られるのどかな公園を歩いた。
それでも、普段よりずっと人でにぎわっているが、面積が広いのでそこまで密度も高くない。
鳥のさえずりが、ここは美しい楽園と錯覚させるほどあふれ返り、時折うぐいすが鳴けばたちまち平安京を思わせた。
背の高い木々が道なりにそびえたち、根元の芝生にはスミレやタンポポ、オオイヌノフグリなど、春の仲間たちがそろっていた。
お花も鳥も、春のキャスト勢ぞろいである。
楽園かな、とかぐわしい常春の道を歩く。
家族とののどかな時間には、不安定な高揚感の出番はない。
ただ安定的に、さざ波が寄せては返すように穏やか極まりない。
それでも、ここにいない家族のことを思うと、それは犠牲のうえに成り立っているのかどうか疑問が湧く。
そこにあるどうにもならない仕方なさを、考えるのも疲れてしまうようなこと。
せめて、これでいいのか、という疑問を忘れずに置いておきたい。
けれど、そこばかり見ていたくないし、実際にそうできない。
本当は保てるはずの生活までも崩れていってしまいそうで、それも違う、と自分が起き上がってくる。
人々が向かおうとする「しあわせ」というものが、自分にはどうでもよくなることがある。
生きているということは、しあわせじゃないこともたくさんあるし。
美しい鳴き声の鳥たちの天敵はなんだろう。
雑草は踏まれてしまうかもしれないし。
生態系を思うと人生プランというものがなんて贅沢で保障がないものだろうと、普段忘れているだけの本当のことに気づく。
現実の予期できなさと、目の前の確実を装った人間社会のあいだに揺れる。
しあわせが目的になると、許せないことがたくさん増えてしまいそう。
こんなうららかな日に、私は問題を先延ばしにすることしか思いつかない。
解決しないことを抱えていくことを選びがちなことは、わかりやすさを求められるインターネットでは言いにくいけれど、本当の生活においては、人が自然にできることなんじゃないかと思った。
もちろんお花見日和には、日差しに揺れる見える世界のすべて、目の前の桜や雪柳の観察を怠らないことが一番のやるべきこと。
などと思考はお休みして、味わい深くまた今年もシーンを重ねる。