コンフォートゾーンを守るということ|満ち足りた予定のない日々について

自分の時間が好きです。
一週間後、二週間後、何の予定も入れていない日々が好きです。
ただそこには自分の計画で満たされているだけの、誰の目にも止まらない満ち足りた時間があるだけです。
計画は誰にも言いません。
ただ「その日は空いていない」だけなのです。

「私には一人の時間が必要で、人付き合いとのバランスを取りたいんだよね」
「バランス取れてないじゃん、バランス悪すぎじゃん」

誰かの基準が私の喜びをサクッと切っていく。
そうやって「寂しそうに見える」私を誘い出して、思うように私が楽しんでいないと、「みんな引いているよ」とまた別のお説教が飛んでくる。
私をコントロールできるものであるかのように扱う言動に引く。
親切心がまた何かを切り裂いていく。
あなたとの関係とか、最初から弱かったものをいとも簡単に。

手を止めて人に会いに行く。
お化粧をして服を選んで、きちんと「女性」になって、人に会いに行く。
つかの間、誰かにとっての「よい人」のように麗しく振る舞う。
別の朝が来ると、魔法が解けて、私はまた手を動かす。
一番安心な自分に戻る。

また、一週間後、二週間後、何の予定も入れずに過ごすことになりました。
結局それが安心なのです。
来る日も来る日も私は私の殻を快適に保って、見るべき世界を見て出力していく過程の日々が。
そこにあなたが必要かどうか、よくわからないのです。
お互いにあるでしょう、気まぐれというものが。

「コンフォートゾーンを抜けて新たな世界に足を踏み入れてみましょう」
誰かの言葉が妙に無責任に感じ出す。
占いも自己啓発も、客引きの魅惑的な言葉に聞こえてくる。
あなた方がお金がほしいことが先に見えて、私のための言葉じゃない気がした。
ウィンウィンならいいのだろうか、ウィンウィンになったことってあっただろうか。
何が物乞いで、何を信頼してもいいと思っているのか、何に費やしていいと思っているのか、よくわからなくなってくる。
嘘を楽しむためにエンターテイメントというジャンルがある。
確かにある。

コンフォートゾーンを抜け出しましょうという言葉が妙に頭の中で響きます。
疑問に思うのです。
本当にそうするべきでしょうか。
毎日少しずつ磨いて、細やかな配慮を自分にもまわりにも施して、コンフォートゾーンを築き上げているというのに。
またサクッと喜びを切っていくのでしょうか。

私はコンフォートゾーンを抜けることよりも、毎日のコンフォートゾーンを外の都合から守ることが難しいのです。
だからそれを維持できたら上出来です。
繰り返す日々の少しずつの仕事。
その積み重ねで築き上げる世界。
築き上げたものが見えてくる時間。

資本主義の時間軸を抜け出す私の時間軸。

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