桜の季節が終わって、不意に訪れる空虚さ

一番好きな季節が過ぎてしまった。
つい先日まで「向かっていた」のに。
桜がつぼみを膨らませ、今か今かと待ちわびて、満開のピークを過ぎて、花弁は旅立ってゆく。
また来年。
──また来年、という心の余裕が、私には足りない。
何よりも大切なものであるかのように感じる。

いったん昇りつめた日々は、また緩やかになる。
向かう先を忘れた。
そんなものあったっけと、とぼけているみたいな私がいる。
私はただ巡っていたい。
どこにも昇りつめなくていいから、成長よりも日々を味わっていたい。
そう思うのに、私の中にもいくらかの意欲があることも知っている。
社会の前提と、自分の人としての欲求。
配分はどれくらいだろう。
耳を澄ませる。
自分の違和感に正直になると、この世はなんて生きにくいものでしょうね。

情報はどんなふうに、本当の生身の人生に役に立つのか観察する。
正解はあふれているけれど、「私とあなた」のあいだにある関係を、タグ付けしないで見ていたい。
構造の中ではみ出していく出来事を、そのまま受け止める器がほしい。
守ることばかりアイデアが思い浮かぶけれど、傷ついても経験したいかつての気持ちが懐かしく、まだ手の届く場所で光る。
まだ私の中で光る。

夕方十七時過ぎの明るい空を見ると、新たな頂点を見つけた。
夏至だ。
夏至まであと二ヶ月半。
なんだかその間は、自分は元気でいられる気がした。
案外短いのだ。

体の日記をつけていると、雨の日の起き上がれないことの多いこと。
記録はつけてみるもので、不調の全部を自己管理のせいにしていると心がもたないと感じた。
「そうか、雨のせいなんだ」
雨の日に起き上がれないことがある事実は変わらないけれど、そう思うと責任がふっと肩から降りていってくれる。
適度に何かのせいであることを見つけるのは健全なのだと気づいてから楽になった。
それは、ただ物事の道理を細かく見ていけばたどり着く、私に見える範囲のいちばんシンプルな物理的な事実に過ぎない。
私はそれまで何をどれくらい背負っていたんだろう。
重いものに敏感だけれども。
なんでもそぎ落とさないように見極めながら。

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