京王線の電車に乗って揺られる午前中。ぽつりぽつりと所々席が空いている。私は空いている電車の、中央の手すりの横の席が好きで、その日もそこに腰を掛けていた。
私より前にそこにいたのか、あとからやってきたのかすっかり忘れた。気づけば三人組の若い男性が向かいに座っている。おそらく春休みの高校生か大学生だろうか。
三人はよく見ると顔立ちは全く違うのだけれども、どことなく雰囲気が似ている。同じ系統の人々が三人集まっている。三人とも眼鏡をかけていて、素朴な服装をしていて、髪がさらさらで、そして、眉毛がふさふさでちょっとつながっている。垢抜けていない。
それから三人はそれぞれに黄色いパンフレットを持ち、さっきからずっとそれを眺めたり、そのパンフレットの中のことについて話し合っている。けれど、笑い声をあげるのでもなく、どちらかと言えば真面目な雰囲気で、話し声は向かい側の私まで届くような音量ではない。時折真ん中の一人が、端の一番黙っている一人に話しかけている。それも聞こえない。この人たちは三人とも同じ何かが好きなのだろうと察したが、パンフレットは傾けられており、表紙の文字が見えるには傾きすぎていた。「発車ベル」という文字がかろうじて見えた気がして、電車か何かのイベントだろうか、と考えた。
私には、三人が楽しそうに見えた。ぱっと見、三人とも笑顔というわけでもなく、どちらかと言えば大人しそうには見えるけれども、きっと社交的ではないわけではないのだろう。三人で約束をして、スマートフォンを見ることもなく、会話を重ねながら乗車時間を過ごしているのだから。そして共通の何か夢中になれるものがあって、それを楽しむための知識もあるのだとしたら、そんなに楽しいことってない、などと考えてしまった。
私は、彼らの手元でもう少しで見えそうな表紙の文字が、もっとちゃんと確かに見えないだろうかとじれったかった。「何を見ているのですか?」と話しかけたいような気がした。でもそこまでの社交性をこの場面で発揮することはなかった。私こそ現在、そこまで社交的ではないのだから。それにそれは彼らの時間の邪魔をすることになってしまうだろうし、ただこの人たちへの興味が湧いてしまっただけで。その代わりに、三人をまじまじと見すぎてしまったかもしれない。
彼らが社会人になって働くとしたら、どんな社会人になるのだろう。向かって右側の人が、すっかり会社の色に染まり、大人らしい巧みな定型文と雑さで先方の電話を切るところが見えた気がした。真ん中の子は、髪型もすっかり変えて驚くほどに見違えたスーツ姿のサラリーマンになっている様子が見えた気がした。向かって左の子は、研究室でマイペースに着実に研究を進めていそうに見えた。そして、その頃もこの日みたいな楽しみを持って生きているのかな。
彼らのこの日が楽しかったのかなんて本当は知らないのだけど。私にはそう見えてしまって、人物像が少し膨らんでしまったのかもしれない。
たとえば、もし私が若い頃に、クラスメイトにこの三人に似た、一見目立たないけれど素朴で善良な雰囲気の人々がいたら、私は気がつかなかったかもしれない。私自身の物事への観察の厚みが増した分、彼らの素朴さが魅力的に映ったのかもしれない。
勝手なものだな。でも、よい空想ができた気がした。