「いばらの道歩きだ」自分の道のりにそんな名前を付けてつぶやいた。いばらの道って自分で言うのはどうなんだろう。ちょっとナルシシズムっぽいかな。
以前、ある心理士さんと面談をした機会に、かけてもらった言葉がある。
「学校に通うというのは、下駄を履かせてもらうということなんです。不登校というのは、いばらの道を歩くようなもの」
表現に配慮しながらも、先生はそうおっしゃった。私はそれで傷つくどころか、その言葉に救われたために印象に残った。
私が子どもの頃、「不登校」という言葉が一般的になった。
一時間目が始まるくらいの時間に、私は毎朝テレビの前に座り、ワイドショーを見た。ある朝不登校についての特集があり、大人たちが、自分の置かれた「不登校」という立場について、深刻な顔をしてコメントをし合う様子を見た。一人で見ているのだけど、なんだか気まずい。気まずいけれど、見ずにはいられない。怖いもの見たさ。胸の中がわなわなとざわつき、怒りとも情熱ともつかない炎のような熱が、胸の中で燃えるのを感じた。
この人たちにとっては私が「問題」なのである。学校の先生にとっても、親にとっても。─私が「問題」なのである、ということが、私にとって問題だった。
じゃあなぜ、私は「問題」だったのだろう?私には自然な結果としての不登校という気がしていたけれど、誰かの都合でそれは子ども側の問題として扱わなければいけない、という気配を、子どもながらに感じ取っていた。テレビの中の大人たちが深刻なほど、私の炎に薪がくべられていくようだった。そして深刻である割には、交わされる言葉から、当事者と同じ目線に合わせる姿勢がないことを、やはり子どもながらに感じ取っていた。
小学校の担任はそれまでより私に関心を示すようになり、時折クラスメイトからの手紙を持って自宅に訪問したりした。幼稚園の頃お世話になった先生方が、車で自宅までやってきて宗教の勧誘をしていった。
中学生になると、話したこともないクラスメイトから手紙が届くようになった。手紙を介して、私が手を差し伸べられる、彼らとは違う側にいるのだと突きつけられているような気がしていた。
そしてその頃の私には、彼らと同じ経験がなかったから、それなりに焦燥感や孤立感も感じてはいたが、自分が弱いのだとはどうしても思えなかったし、私はもっと自分の世界を守って安心していたかった。ただ物事への感じ方が異なり、楽しいと感じることも違うのだとは確かに考えていたが、マイノリティということもあり、自信はなかった。
大人になってから、不登校の少女が担任のおかげでやがてはクラスに戻るという円満な映画のサブストーリーを見た。少女の選択肢は、それが一番よいとでもいうかのような結末だった。それは、誰にとってのハッピーエンドなのだろう?不登校児だった頃、みんなが授業を受けている時間に見ていたワイドショーを見ていたときの心の様子を思い出した。
学校に行かない子どもはどうするべきなんだろうか?その頃の私には知る由もない。今も昔も明確な主張やメッセージを持っていない。学校に反対する気もなく、学校がいいとも決して思わない。自分が不登校になったことで、無関心だった外部の大人たちがあたふたする様子を見て、冷笑するほどのひねくれた賢さもなかった。
ただ、自分が歩ける道を歩いていたに過ぎない。そこには自分で選んだとか選ばなかったという次元を超えた仕方なさがあったと思う。
自分がそういう経験をしたことは、一種のアイデンティティにはなっており、それは、世間が期待するほどポジティブでもネガティブでもない。印象的だが、普通の経験だと思う。
けれど、自分にとっての普通の経験が、周囲にとって普通のことのように受け止められることとは違う。
おそらく不登校になった翌年くらいに、フリースクールという選択肢を母が見つけてきた。
見学に行った帰り道、「どうだった?」と聞く母に、「絶対行く」と反射的に答えた。すぐに胸のあたりに違和感を覚えた。吊革につかまっていないほうの手をぎゅっと握った。大人の必死さや不安を覆す行動がとれる子どもではなかったが、代わりにその必死さや不安を請け負っていた気がする。反射的な答えは、本心でも嘘でもなかった。
あるとき、フリースクールで不登校児のインタビューを受けることになって、テレビ局のアナウンサーがやってきた。学校に行かなくなった理由や原因について、子どもたち一人ずつに取材するという手順だった。
私はどういう流れか、取材を受ける子どもの一人になった。
周囲には、様々な年齢の、様々な理由で学校に行っていない子どもたちがいて、新聞を発行したり精力的に活動している子どもたちや、とびきり絵がうまい子、ヤンキーっぽい子などがいれば、私のように少しぼんやりしている大人しい子どももいた。
私は不登校の理由や原因について、他人に尋ねられるたびに何かを答えていたけれど、本当のところそんなのうまく言語化できるほど自分でも把握していなかった。それは決定的な、センセーショナルな出来事の結果ではなかったから。でも、何かの積み重ねの結果ではあった。学校に通うほかの子どもたちにも、周囲の大人たちにも、学校に行かないことへの理由が必要なようだった。そして多分私自身も。だから、私も自然に説明するものだと感じていた。そうやって自分を証明しなければ、自分の存在が負けてしまいそうな気がしていた。
取材において、私は「担任と合わなかった」という事実の一つだけを選んで伝えた。でも、それがすべてであるような伝え方しか、その頃の私にはできなかった。もやもやとした中から、わかるところだけ、わかる言葉で掴み、まるでそうとしか言えなかった。それがなんだか、周囲の大人たちに流されたようで、そのあともずっとぼんやりと引きずった。フリースクールの大人も、取材しに来たアナウンサーも、担任の教師も、結局誰一人信頼には値しない気持ちがうっすらと残った。みんな結局自分の都合に合わせてほしいのだという根底にある気配を感じた。
そして「担任と合わなかった」という回答にしかたどり着けなかった自分が、なんだか平凡だなと受け止めるのにも時間がかかった。少し嘘をついたような気持ちが残っている。誰に?私自身にではないかと思う。
取材を受けたことすら、そこには大人の事情がある気がして、そこに巻き込まれたような悔いが残った。
現実は物語ではないけれど、どこかに予定調和が仕組まれており、大人がこうしてほしいという期待を子どもは本能的に汲み取っていることがある。後から、ああ、あのときのあれは、大人の都合に合わせたんだ、と気づく。
映画のサブストーリーのように、クラスに戻っていたら私の道がいばらではなくなっていたかというと、私はそうは思わない。やはり自分は自分である限りは何かしら困難を抱えていただろうと思う。同時に、そのものが困難なのではなく、相対的な話でもある。例えば誰にだって仕事の向き不向きがあって、環境によってそれが活かされることも活かされないこともあるのと同じように。そうして環境により、周囲や行う物事との関係性により、困難にも、困難と認知せずに過ぎることもあるだろう。
私にとってたまたま不登校という周囲に見える形で表出されたときから、その後のいろいろな経験が独自のルートに突入していった気がする。
子どもの頃、いばらの道のりはまだ始まりに過ぎないことは知る由もなかった。振り返ってみると、結果的にいばらの道になったと思う。
また、いばらの道の経験を安易に後悔することは本質とずれている気がする。自分で選ぶことが大事だと私も感じているが、後悔というのはそもそも自分の選択への概念ではないだろうか。当時の私にも、そこから生まれた道のりにも、どこまで自分自身に選ぶ余地があったのかがよくわからない。人は自分の選択で学校に通うのだろうか?─だから、不登校を後悔するというと、問いがずれる。
はがゆいけれど人と違った仕方なさというのは、あまり伝わらないことが多い。またはそのポジティブでもネガティブでもないというところがどうしても伝わりにくい。私にも想像の外側にある物事はたくさんあるから、自分を顧みてそう思う。
いばらの道─大人になってからたまたまもらった言葉だが、今は勝手にその言葉を引き受けたい気がした。多分、そう思っているのは確かに私本人だと思うが、数年後、また別の気づきがある可能性は十分にある。
人に不登校の経験を話すとき、その後の人生を伝える必要があるとき、相手がそれを理解する意欲がある人なのかは今でも少し気になる。ただし、私自身もその経験をどんなふうにも評価されたいわけではないから、人生の一例として、ごく自然に話しができると、違う経験をしてきた人と、今その場面では少しだけ通じ合えた気持ちになる。