リリーとミス・クワイエット|第一章

 「ねえクロエ、よかったら一緒に帰りましょう」
「そうね、行きましょう」
 「おいジャン、今日は樫の木の公園な」
「オッケー、今日は僕がボールを持っていく番だね」
「頼んだ!じゃ後でな」
 終業のベルが鳴ると、教科書をぱたんと閉じる紙の音、机でトンと紙の束を整える音、椅子を机に戻すときの床をこする音が重なって湧く。クラスメイト達は帰り支度と同時進行で、器用に仲の良いクラスメイトに言葉のボールを投げ始める。目的のあるもの、目的などないけど気ままに放たれたもの。それに対して誰かがまた何か言う。しばしそのざわめきが続く。
 そのざわめきを、一言も何も言わず、悲しみも喜びも見せない表情で、リリーはぽつぽつと通り過ぎてゆく。
 「リリー!一緒に帰ろう!」
 廊下の奥からの突然の呼びかけにリリーははっと振り向いた。
「今行く!」リリーは、別のリリーが友人に追いついて廊下の角を曲がるのを見届けながら、小さくため息をついた。小さなため息はすぐに放課後のざわめきに吸い込まれて消えた。

***

 かちゃ、かちゃ、と机に着地した陶器のソーサーが音を立てる。カップの中の小さな水面がかすかに揺らめく。

 セピア色の時間 セピア色のティータイム
優雅なご婦人こんにちは
素敵なイブニングを迎える前に

 歌声がリリーの口元からこぼれるのを聞いたことがあるのは、ルビー・ワルツ婦人しかいなかった。
 放課後、リリーの日課は「夕暮れ時のお茶会」の準備をすることだ。そしてこれはお茶会の始まりの歌で、「夕暮れ時のお茶会」というタイトルである。そしてお気に入りの歌のタイトルは、リリーが開催するささやかなお茶会の名前として命名されたのだった。
 「ルビー・ワルツ婦人、ごきげんよう。こちらへどうぞ」リリーは子供用の木製の椅子へと案内する。
 「まあありがとうリリーお嬢さん。ごきげんうるわしゅうございますわ」うさぎのルビー・ワルツ婦人とのお茶会の時間が始まる。
 「今日はミントティーをご用意したのよ。さわやかな香りをお楽しみくださいね」
 白地に群青色の繊細な模様の入った上品なティーカップがふたつ、湯気を立てて小さなテーブルに並んでいる。ルビー・ワルツ婦人はリリーの向かいの席に座り、何も言わなかった。
 リリーは上品にカップを持ち上げる演技をすると、「ああいい香りだこと」と大げさに言って、口をつけずにカップを置いた。「クッキーもあるのよ、どうぞ。あーん…(もぐもぐ)」宝石箱のような素敵な缶を開けてクッキーを一枚つまみ、ルビー・ワルツ婦人の口元を経由して自分の口の中に放り込んだ。「おいしいですわね」いつもよりほんの少しだけほころんだリリーの顔を見たことがあるのも、ルビー・ワルツ婦人だけかもしれない。
 そのとき、窓の外でかすかなざわめきの気配を感じて、はっとリリーに緊張感が走る。おもむろに窓辺に行き、気配を殺して舗道を見下ろすと、同年代の男女が家の前をかけていくところだった。彼らが通過するとき、活発な声が空気を割って入り込んできた。その出来事はリリーとルビー・ワルツ婦人のお茶会を、なんの悪気もなく、世界の隅の、今も目立たない場所にある、もっと奥の奥まで押し込んでしまうようだった。
 リリーはその場に立ち尽くして動けなくなった。十字路を曲がって彼らが見えなくなってもしばらく、ざわめきの消えた舗道を眺めた。決して明るくはない何か、この世に操縦できないことが存在することを知っているものだけが知っている鈍い体の感覚だった。
 リリーは肩を落としてため息をついた。つかの間のほころびは静かに散ってしまった。こんな出来事のたびに、のど元に詰まる靄のような恨めしさを飲み込んだ。リリーはそれを「恨めし綿あめ」と呼んで、毎度心の中でたいらげた。

 「さすがリリーお嬢さん、カナリヤのような歌声でしたわ」気が済むまで歌を披露したリリーは、ルビー・ワルツ婦人から賞賛と拍手を受けた。リリーはお辞儀をしてお行儀よく座り、ルビー・ワルツ婦人もまた無言で佇んだ。向かい合ったふたりのあいだに、しばし沈黙が流れる。夕日はもう沈みかけており、あたりはセピア色の時間を終えてイブニングの入口に差し掛かっていた。リリーはおもむろに立ち上がると、薄暗くなった部屋にスタンドの明かりを灯した。

***

 ある校外学習の帰り道、子供たちは二列になり、街の歩道を群れを成してはぐれないように移動していた。
 にぎやかな一行の列の一番後ろを、リリーたちは歩いていた。
 「あ、それ私も知ってる!」
「ほんと?かわいいよね。どのキャラクターが好き?」
「えーと私はぁ…」
 リリーの隣の女の子は、前方のふたりと話が盛り上がっていた。リリーは歩調を合わせ、三人の会話に相槌を打っていたが、そのうち目立たないように、彼女たちの少しだけ後ろを歩くように変化した。
 「ねぇ、あの子なんにも言わないね」素朴でごく単純な疑問として、でも少しの苛立ちを込めて前方の一人がぽつりと言った。
「リリーは無口なのよ」別の女の子がひそやかに答えるのが聞こえた。
 そのひそやかな声はリリーの耳に入ると、彼女の歩を止めてしまった。力なく立ち止まり、ふと見上げたカフェの窓ガラス越しでは、にこやかなウェイターの女性が恰幅のいい紳士の注文を受けているところだった。ふいに、注文を受け終わった女性はリリーに気がつき、ふたりの目が合った。その女性はリリーに微笑んだ。それはただの偶然の一瞬だったのかもしれない。リリーは驚いて微笑み返すことができずに、気まずさか嬉しさかとっさに分別がつかないまま、ぎこちなくカフェの前をかけ出した。

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