「コーヒーとシナモンドーナツがおひとつですね」
長い月日が絶ち、成人したリリーは街角のカフェに勤めていた。
「それでは少しお待ちくださいませ。失礼します」リリーは手書きで注文を受け終えると、礼儀正しくその場を去った。恰幅のいい紳士は注文のやりとりを終えてから、折りたたまれた新聞紙をおもむろに広げた。紳士は昼下がりの常連客で、新聞に一通り目をとおすのにカフェに立ち寄り、窓際の席でゆったりと過ごした。そう長居するのではない。ただ、紳士の振る舞いに慌ただしさがなく、体の丸みがゆっくりとした動きを強調しているせいかもしれない。なんとなく、彼のいる窓際は通りの喧騒とは別のゆったりとした時間が流れているように見えた。リリーは彼の人生のこの場面しか知らないが、彼が新聞に目を通す窓際の風景は、リリーの日常でもあり、彼の穏やかな習慣に親しみを感じた。そして余計なことを言わないところがもっともよい点だとひそかに思っていた。
客足が落ち着き、同僚のジャンヌは解凍が終わったケーキをショーケースに慎重に並べていく。シンプルだけど丁寧に、美意識を忘れずにやる。コレットは手が空いた隙に、テイクアウト用の焼き菓子のPOPを新しく描き上げた。コレットにかかるとなんでも乙女のようなおしゃれなテイストに仕上がる。フラヴィは焼き菓子や軽食、資材の在庫を手早く数えてメモしていった。
リリーが客席に補充し終えた調味料を並べて戻ってきたとき、フラヴィが左手で肩をもみながらぽつりと「よし、と。今日は忙しかったねぇ」と言って、黙々とした彼女たちの沈黙を破った。それから「そういえばジャンヌ、お昼時にお客さんに絡まれていなかった?」とさっきから聞きたかったように言った。
「ああ、なんかつかまっちゃってね。でも大丈夫。電話番号を渡されただけ」美しいケーキの作品を並べ終わったジャンヌは、突然の問いにも動じずに、ショーケースを閉めながら淡々と答えた。
「マジか」フラヴィがにやける。その後ろでコレットの顔色がぱっと開いた。きゃ!と声が聞こえてきそうな表情だ。
「でももう捨てちゃったけどね」ジャンヌが何も持っていないよと言わんばかりに両手のひらを見せた。
「えー、もったいない。かけてみればよかったのに」とフラヴィ。フラヴィはこういう話題を始める担当だが、期待するほどのロマンスにはなかなかありつけない。
「ジャンヌってほんとうにモテるよね」コレットが素直な口調で言った。
「えっ、もうやめてよ」ジャンヌには浮ついた様子がない。
リリーは何も言わずに始まった会話に聞き役として参加していた。もしくは、そのつもりでそこにいた。「花冠の時間だ」と思った。それはリリーが勝手に命名した、同僚たちの井戸端会議の別名だった。
言葉がとても速いペースで交わされていき、リリーはふいにそれが見えるものであるかのように、ボールの往来を視線で追った。やがてボールを追っていくうちにぼんやりしてくると、今度はリリーのペースで視線を移しながら、彼女たち一人ひとりの美しいと感じるところを頭の中で言葉にしていく。一周すると、今度は花に例えていく。コレットはポピー、ジャンヌはガーベラ、フラヴィはグラジオラス…私は、リリーよね…。
花冠の花たちの声が、時折背景音のように変わることがある。代わりに奥底にあった別のメロディが浮き上がってくる。
のどのあたりに何か詰まるような感覚がする。リリーはしばしば、少女のころにのど元に詰まる靄を綿あめにして飲み込んだことを思い出した。今はその感覚が訪れると、また別の映像が見えてくる。さなぎが蝶になり、靄を蹴散らして飛び立っていくのだった。
リリーはおもむろに深呼吸をして、背景音が再び切り替わった。そしてせわしなく楽し気なキャッチボールをもう一度見守った。笑い声がすぐそばに転がっている。
***
ある晩、シャワーを終えて姿見の前で髪をとかしながら、リリーは鏡の中の女性を見つめた。「ハイ、ミス・クワイエット、元気?」リリーがそう話しかけると、ミス・クワイエットは困ったような笑顔を返した。
時折リリーは──とりわけ自宅のアパートメントにいるときだが──ミス・クワイエットに微笑みかけ、無言のまま過ごす。ひそやかに過ごしたい夜には、スタンドを消して月明かりを頼りに静寂の音に耳を澄ませた。リリーが何も言わずに姿見の前にしばらく佇んでいるときも、ミス・クワイエットは黙ってそこにいる。彼女は、もしくは、彼女だけは。
「ミス・クワイエット、今夜は元気がないのね。それを隠せないほどには」リリーは呆れた気持ちを押し殺しながらつぶやいた。何かを向こう側に押し込めていたミス・クワイエットの表情が、ふいにぐしゃっと崩れた。
深い嗚咽は時間の気配を消してしまう。一回ずつ大波と小波を超えてゆき、潮が引くように一呼吸して落ち着いた。リリーは暗がりの底から何かを思い出したように、「夕暮れ時のお茶会」を口ずさんだ。「覚えている?」鏡に問いかけるが、返事はない。ミス・クワイエットが鏡の奥でぽつんとこちらを見ている。沈黙が流れる。
ふいにリリーは立ち上がり、もう一度「夕暮れ時のお茶会」の一番まで戻り、ワルツのステップのまねごとをした。よく知らなかったけれど。
歌い、踊り終わったとき、リリーはお行儀よくお辞儀をした。顔を上げると姿見の中に、さっきよりも優しく朗らかな表情になったミス・クワイエットを見つけた。リリーがミス・クワイエットに笑いかけると、ミス・クワイエットも同じ強さで微笑みを返した。
***
月夜、リリーは一人立ち尽くしている。あたりを見回すけれどどこともつかない、月明かりの場所で。まわりには誰もいない、何もない…。そう思っていると、何かが視界を覆い始めて月明かりも遮ってしまった。自分の体もよく見えないくらいに。しかしどこからか声が聞こえる。視界を塞がれたリリーは神経を集中させてその声を聞こうとした。それはリリー自身の声のように聞こえる。おぼろげながらも何かとても馴染みのある響きがしている。リリーは手探りで靄のような何かをかき分け、その響きをつかもうとするけれどどこにも感触がなかった。危うげに手探りを続けながら、一歩ずつ前に進んでみるけれども、それが前なのかどうかすら知る由がない。どこからともない微かな声だけが響き続けている。
ふいにリリーは「あああ!」と恐怖と苛立ちを込め、救いだか手がかりだか自分でもわからない何かを求めて叫んだ。自分でもその行動と声に驚きながらも、それ以外にできることがないとでも言うように叫んだ。
それが合図だったかのように、靄は次第に晴れてゆき、リリーは自室の、机の前に立っていた。スタンドの明かりが灯る机にはペンと、ノートが開いて置いてある。リリーはまだ呼吸が乱れたまま冷や汗を流しているが、吸い寄せられるように着席し、さっき靄の中でつかみ損ねたものをそこに書き始めた。
リリーはペンを握ったままノートを見つめ、自分の体の中にあるものを探した。コンコンコン、丁寧にノックをして、一つ一つ扉を開けてみる。どの部屋にどんな感情があって、それにはどんな言葉が相応しいか、体をめぐる血管をたどるように作業を繰り返した。
***
幾日かが過ぎていったある夜のこと、リリーはあの不思議な晩と同じように席についてノートに文字を綴っていた。スタンドの明かりがリリーの手元を照らしている。その間にある日常生活などないかのように、毎晩ここで同じ姿勢で過ごしていた。
ふと、リリーは手を止めて椅子にもたれ、深呼吸ともため息ともつかない呼吸をした。まるで椅子に根を生やしたように疲労で動けなかったが、目を閉じ、ノートに書き留めた言葉のいくつかをつなぎ合わせて口ずさんでみた。それがよい方法かどうかは検討の余地がありそうだけれども、ひとまず心のままにそうした。リリーが口ずさむと、リリーの周囲、三百六十度を五線譜と音符が囲んで回り始めた。
それから、鏡の中からレスポンスがあった。くすくすと控えめな笑い声も聞こえる。リリーはぼんやりとした瞳のままぱっと振り返り、鏡面は見えなかったけれど姿見のほうを見つめた。ミス・クワイエットが歌っている。そこでリリーがさらに歌うと、ミス・クワイエットもそうした。リリーはぼんやりとした思考のまま、満ち足りた笑みを浮かべた。
この日を境に、孤独な歌はハーモニーに変わっていった。ふたりが歌い始めると、夜には星が瞬き、昼には隠れていたつぼみが開いて鮮やかに部屋を染めた。