リリーとミス・クワイエット|第三章

 カランコロン。木製のチャイムの軽やかな音とともに扉が開く。広いとは言えない店内に、びっしりとさまざまな文房具が陳列されている。リリーはしばし文房具のにおいを楽しむ。───それと気づかれないように。ノートを一冊使い切ったので、リリーは新しいノートを選んだ。
 「はい、ありがとうね。ずいぶん分厚いノートを選んだね。日記でも書くの?」年配の店主が眼鏡の奥の瞳をいたずらに光らせて尋ねた。
 リリーはびくっとして、「あ、あの、はい…」とぼそぼそと言った。冷や汗が垂れてくる。
 「そうかい。君なら三日坊主にはならなさそうだね」と言って店主はウィンクした。
 リリーはぎこちなく、でも精一杯微笑んだ。
 もう一度カランコロンと木製のチャイムの音が鳴り、新調したノートを大事そうに抱えた──そして少し動揺している──リリーが店から出てきた。リリーは店のドアが閉まると、どっと疲れたようにため息をついた。

 机の上には、使い終えたノートとメモの端切れが散らばっていた。
 リリーが着席すると、時計の音も宇宙に吸い込まれたように遠く彼方へ消失し、時間という概念もあいまいに溶けた。
 午後の日差しは夕焼けに変わり、黄昏を超えるとスタンドの明かりがリリーの周囲だけを照らす。時折リリーが口ずさみ、ミス・クワイエットがハーモニーをつくった。ほかにあるものは、紙をめくる音、ペンが滑る音、ため息、深呼吸───車の排気音は、どこか遠い下界の音のように響いた。

***

 「わぁ、あのレストランへ行ったのね。羨ましい」コレットがジャンヌに無邪気な笑顔を向けて言った。
「で、誰となの?」フラヴィは遠慮なく踏み込んだ。
 その日の花冠の輪も、ジャンヌは浮わつかずに淡々としていた。この会話の構成は以前にも見たことがある。傍らにいるリリーの世界において、花たちの声が背景音に切り替わろうとしていたそのときだった。ふと、ガラス越しに誰かの視線がこちらを見ていることにリリーは気がついた。下校中らしい少女が歩道からカフェの様子をのぞき込んでおり、ガラス越しにその様子に気がついたリリーと少女の視線が合った。リリーが反射的に微笑むと、少女は歩道から満面の笑みを浮かべた。躊躇のない少女の笑顔にリリーはどきっとした。嬉しいのか照れくさいのか種類がよくわからない何かを胸の中に感じた。
 少女は控えめながらもはっきりとリリーに手を振って去っていった。リリーも少女に手を振った。

***

 休日、リリーは部屋の中をうろうろと落ち着かない様子で、宅配便の到着を待った。顎を触りながら部屋を見渡し、考え事も同時に進めている。
 そのとき、チャイムが鳴るとリリーは素早く玄関に向かった。
 「リリーさんですね。お届け物ですよ。新しい試みがあるようで」宅配業者の男性がウィンクした。縦長の大きな荷物を抱えている。
「あ、ありがとうございます」リリーはびっくりして顔を赤らめながらも、男性の目をちらっと見てお礼を伝えた。
「重いですよ。お気をつけて」荷物をリリーに預けながら、男性は親切に言った。
 扉を閉めるとリリーは深呼吸をして心を落ち着けた。そうして大きな荷物を、一歩ずつ慎重に部屋に運び込む。
 ベッドの上に包みを置き、高鳴る鼓動に息を荒くしながらゆっくりと丁寧に開けていった。
 現れたのは八十一の鍵盤があるキーボードだった。リリーは大きく息を吸い込み、つばを飲み込んだ。そして白い鍵盤と黒いボディを満足しながら、けれども少しの不安を秘めて眺めた。
 「ミス・クワイエット、届いたわ」リリーは姿見のほうに話しかけた。
 ミス・クワイエットは嬉しそうに微笑んだ。
 置き場所はまだ決まっていなかったから、そのままベッドの上に置いて鍵盤で和音をおさえてみた。
 「ラララ…ラ?」鼻歌で気ままに歌っていると、時折メロディの進むべき方向を見失ってしまうから、リリーは本を開いてコード進行を調べ、歌が進む方向を見つけようと思った。
 リリーは低いところから高いところへと、順番に和音を押さえていく。これは簡単と言わんばかりに馴染みのある和音を一周すると、次にページを確認しながら、四番目の音を加えた。視線が本と鍵盤を忙しく行き来する。四番目の音が加えられた和音は、リリーにはまだわからない神秘的な音がして、焦燥感をかき立てた。
 ミス・クワイエットは、こっそりとリリーの活動を見守った。

***

 「私はもっと味わってほしいんだけど、彼はそんなこと気にしないのよ」ジャンヌは嘆くように、でも軽い調子で言った。
「じゃあ今度私たちに振る舞ってよ。食べてみたいもの」コレットが提案する。
「あっ、じゃあ持ち寄りにしない?一人で支度は大変なんだし」フラヴィが提案を重ねる。
「いいね!」三人の合唱が生まれた。
 その傍ら、リリーはテイクアウト用の焼き菓子を陳列している。何気ない作業で体が自然に動くように、頭の中にメロディが流れ、ふいに口元からこぼれた。
 「リリー、何か言った?」コレットが振り返って尋ねた。
リリーは焦って答えた。「いいえ!なんでもないの。ハミングしちゃったみたい」
「え、何それ、おもしろい」コレットが笑うと、ほかのふたりもけらけらと笑った。リリーもつられて笑った。
 下校する子どもたちが通り過ぎるのに気づき、リリーは窓の外を見た。このあいだの少女がまたのぞき込んでいたら、今度はもっとしっかり手を振ってあげようとこっそりと企てていた。

 その日の帰り道、空は花曇りで、街はほどよくにぎやかだった。リリーは公園を通って帰ることにした。噴水のある広場を歩きながら、身近な世界の出来事を眺めた。噴水のしぶき、周囲に集まる人々、足元を歩く鳩、道なりに続く花壇の花々。頭の中のメロディを再生すると、リリーは今にも踊りたい気持ちになったが、少し軽やかな歩調に留めてごまかした。ふいに不思議な気持ちになった。こんな素敵な気持ちにぴったりの「私の歌」があるなんて。それは映画の主人公だけが持っているものだと思っていたのに。
 リリーが思いに耽っていると、何かのきっかけで鳩が一斉に飛び立った。リリーは思わずびくっと振り返り、目を丸くして鳩の行方を観察した。結局鳩はそれほど遠くない地面に着地をして、マイペースに歩を進め出した。リリーはその様子を微笑ましく見守った。

***

 晴れた休日の午前中、窓から光が差し込み、さわやかな風が入り込んだ。
 「ふん、ふん、ふん♪」リリーは鼻歌を歌い、上機嫌で譜面台にノートを置いて演奏の準備をした。キーボードはすでに折りたたみ式のスタンドの上に設置されている。背面から垂れるケーブルをたどると、ペダルにたどり着く。
 再びそよ風が吹き、窓から入り込むと、コルクボードにピン留めされた何枚ものメモの切れ端を揺らした。メモには様々な言葉のかけらのようなものが書き込まれており、すでにそれ自体が何かの作品のようなオブジェクトとして飾られていた。
 リリーは何度もジーンズで汗を拭き、緊張感を持って両手を鍵盤の上にスタンバイした。それからミス・クワイエットに目配せをする。ミス・クワイエットはウィンクで合図を送る。リリーは右手で前奏の単音を弾き始め、九小節目で歌が幕を開けた。
 伴奏にのせたリリーの歌が、部屋の空気と溶け合うように広がってゆく。ミス・クワイエットは、鏡の中で踊りを披露して、リリーの歌を壊さないようにコーラスを添えた。
 リリーは自分の指の動きがキーボードの和音を奏で、言葉が歌になって流れていくうちに、胸の中にたくさんの花が咲いていくのを感じた。

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