本を読むということに苦手意識があったけれど、本を読むこと自体が苦手というよりも、苦手な文体、もしくは行間、字間、書体、配色、配置などをなんとしても読み始めたら読まないといけないようなことに苦手意識を持っていたのかもしれない。読書ということに関して、これまで数知れない挫折を経験させられてきたから、その挫折感のようなものを繰り返し、ささやかな日常の片隅で、わざわざ掴みに行きたくないということなのかもしれない。
それでも私にも読んでいてもっともっとと読み進めたくなる体験はある。最近それを思い出して、時間がとまっていたブログに新しいページを加えることにした。
この街での二度目の夏は、一度目の秋冬春のあいだに散策した散歩道や近隣の景色などの身近な存在を思い浮かべながら、身体的には次の向かう先を探しているところだった。
秋になる頃には次の場所が見つかり、そこに通い始めた。それを仕事という。
仕事が始まると、それまでの長い時間が嘘のように身体感覚が変わっていった。平日は仕事に捧げる。早起きして、起きるときと昼間嫌な思いをしないようによく眠る。ほどほどに食べる。ほどほどに体を動かす。土日は遊ぶ。そんな日々を過ごす。とても平凡で、単調で、面白みがないけれど安心感がある。私の場合、小さな冒険の積み重ねの先にたどり着いたのは平凡な毎日だった。それを宝物という、ことにしてはどうだろうか。ある人にはつまらないものであっても、ある人には手に入れることができないかもしれないもの。かつての私にも遠かったように感じたもの。
静かな日々を送りたいと気づいたのはだいぶ遅かった。気づくまでにはたくさんのにぎやかな(楽しくて苦手な、苦手だけど楽しい、苦い、エキサイティングな)日々を乗り越える必要が、どうやら、私にはあった。自分の着心地のよい服を見つけるのが下手な人みたいに。
いつか働いていたオフィスで、頭の髪の毛が寂しい上司が、帰ったら飲むビールが美味しい話をしていた。在宅勤務のあいだ、その上司は、在宅勤務だと昼間から飲めるからいいねぇと堂々と話していた。
仕事をしてビールを飲むという生活が、どうにも腑に落ちずに何十年も過ごしてきた。それが飛躍して、その上司の日々を、一ミリも素敵だと思わなかった───悪びれもなく高らかにそんな打ち明け話をする上司を見ていると、どうも毎回バカ殿さまを思い出してしまって、でもそういう文化の国だから、と真面目な顔の下で内心言い聞かせた。バカ殿様は、いい番組だったのかもしれない。だってバカだなぁって素直に笑っていいのだから。今は放送できなさそうだけれど、時代が通過してきてきっとよかったであろうもの───私はそういう毎日を送りたくなかった。その頃は。
夢を描かないといけない気がしていて、夢を持っていないといけない気がした。大人から夢を持っていることを求められてきたから、素直にそれに応じようとしてきたのかもしれない。でも、私にはどうも、どうしてもなりたいものは、そのためにささやかな日常を犠牲にしてまでほしいものは───春夏秋冬のいろいろな、五感や第六感をも働かせて体中で感じ取るいろいろを忘れてしまうほどの、それらを犠牲にするほどにほしいものは───見つからなかった。そして易々と何かを手に入れたり叶えたりする器用さも運も環境も揃わなかった。少なくともこれまでは揃わなかった。だから、疲れた。
いろいろな葛藤はあったけれど、私はひとまずデンジを見習うことで腑に落ちない日をしのぐ。生きるためには食べていかなければならないから、そのために働く。お金のために。なるべく人に悪い影響のない仕事がいいけれど、でも、何がどういう影響があって、何がいいもので悪いものかなんて、あまりにも複雑に絡み合っていて表面的にはわからない。売れているからいいとか、そういう単純な話ではもちろんないけれど、そこを考えても納得のいく仕事などどこにもないのだから(あっても今さら携われないだろうから)、それが善だろうが、ある角度からは仮に悪だろうがやる。何かを選ばなくてはいけない。何かを選ぶことは残酷であっても、選ばなくては何も進まないことになる。それでは、引き受けるしかないね。その残酷さを。
春を迎えたような清々しさや新鮮な空気はないけれど、寒い日が続いたある温かい秋の夜、横断歩道を渡るときに、ふと自由な風が体に触れた。ほら、ついこのあいだもあった。金曜日の夜道、中華屋から出てとぼとぼと歩き始めた歩道の空気のような。世界と心地よい距離感を保てるから金曜日の夜はいい。社会は近すぎず、無関係ではない。またやってくる月曜日はまだ少しあとのことで、店でビールを注文する自由がある。
ただそれだけのつまらないと思っていた日々は、着心地のいい服を着たみたいにしっくりときて私を困らせない。困っていないことは、素晴らしいことだと思う。困ってきた私が言うから間違いない。