季節は巡るから、同じ場所をもう一度とおっているような感じがすることがあるけれど、本当は螺旋のように、別のどこかに続いていて、今はその一点にいる。
四月はあっという間に終わりかけに近づき、窓の外の鮮やかさにも目が慣れゆく。
ツツジのピンクのように、光の色も影も濃さを増してゆく。
次の季節が、どこかで待っているのを感じる。
たまにはカフェオレを爽やかなアイスコーヒーに置き換えてみる。
気温が高くなる午後だから。
一年前、そういう些細な日々の彩を感じる余白がなかった。
今はそれを感じている。
光の色がきれいとか、あの花が咲いたとか、そういう身近なちいさな関心は、文章に残しておくのに私にとってちょうどいいものだけど、多分来年も、来年の私が似たことを、少しだけ違う言葉の順番で考えているだけかもしれない。
来年の私がどんな私か今はわからないけれど、今年の私のように、身近な景色に関心があって、平凡な日々のしあわせを書く感受性が、深く沈まずに大切にできていますようにと思った。
ついこのあいだまで、ただ頭の中のものを目の前に見える何かに作り変えていく過程そのものに没頭していた。
少し、出来上がった形を「早く見たくて」焦りすぎるところはあるけれど、ずっと昔よりはいくらか辛抱強くなった。
こつこつと日々を重ねた。
少しだけ、嫌いな「逆算」の技術を身につけたから。
手を動かす楽しさの一方で、インターネットに置いておくほかに、今は手段がないことを少し寂しく思う。
私の作品を自ら情報化してしまった気がした。
昔は生身の自分で演じていたもの、歌っていたもの、今は、情報になってしまった。
それが私がたった今一人でできることだから。
でも、なんでもお金にしないといけない空気に飲み込まれずによくやったと思う。
まるで開かれているものがよいのだという前提を追い払いながら、同時に閉じ切ってもいない。
ただそこにあっても見る人がいなければないも同然──とは、別の基準に立つ。
サービスを作り上げるわけにはいかないのだから。
ただ自分にとって自然なトーンで進めたかった。
これまでの日々の反動からそうしたかった。
その自然なトーンのまま日々を進めていけるかは本当にわからない。
それ自体が自然ではないかもしれない。
窓の外へ出ていき、ある領域で自分が情報として取り扱われ始めると、途端に自分の中の何かが萎んでゆく。
鎧を身につけることがより自然なのか、そうじゃない別の方法があるのか。
シートに情報化された私には魅力がない気がした。
それを魅力的にするために考え出す言葉があまり好きじゃなかった。
違和感に対応していくエネルギーというのは、想像以上に負担が大きいのだ。
でも少し、それでも自然に開かれていく瞬間もある。
それを見逃さずに気づくときにさらにまた少し開くような。