いつもの窓辺から風が入り込む。
シーツを洗って布団を干したベランダから、柔軟剤の香りがかすかに鼻先を通り過ぎてゆく。
しばらく曇りが続いたから、空が晴れているのが嬉しい。
本当に元気がないときは、自分が世界の中心になってしまい、お日さまがどれだけ晴れやかに世界を照らしていても、自分のレンズからしか世界を見られなくなる。
そういう時期を過ごすのは自然なことだとは思っても、あまり過ごしたくもない。
その朝も、お日さまが眩しいことに気づいてはいた。
ただ、駅に向かう群像の中の自分の頭上には吹き出しが漏れ出して、不幸や不満の言葉の断片が、白地の吹き出しにタイプされていた。
その風景を、かろうじて捨てていないユーモアの力をふり絞り、頭の中で額縁に入れてみたら少しだけ面白かった。
誰も私の頭上の吹き出しなど見えないのだから。
私にもほかの人の吹き出しが漏れ出してしまった姿は見えなかった。
だから、仲間がいたのかはわからない。
こんな晴れた夏の朝に、こんな不幸が漂っているなんてと不思議に思った。
だって、外から見ればないも同然なのに、地球から生えているこの「個」が、人知れずこんなに重いなんて不思議だ。
そんなに重いと、世の中には幸せな人もいることが気に留められなかった。
──今日は、その日から遠い場所にある。
これから先、自分が進んでいける方向について、選べるものについて考える。
「なんとかはなるのかな」という気持ちには楽観と恐れが含まれている。
それでもこの先どうなるかわからないという不安は、ごく一般的でもある。
そう言いながら、最後までどうなっていくかわかる人生を歩みたいわけではない。
どうなるのだろう。
怖くてわくわくしているうちは、というよりも、実際の行動ができるうちは大丈夫な気がした。
ドラマの主人公が、会社を辞めて自分を変えるために小さなアパートで暮らし始める物語の断片が、よくショート動画で流れてきた。
それが「お暇」として描かれていたけれど、私にとってそんな生活は、かつて長く続いた現実だったから、「そっか、彼女には”お暇”なんだね」と思った。
私はそこにもとから住んでいる住人、つまり、「そちら側」の住人だったんだ、というような距離と寂しさ。
それだけで判断せずに、もっとしっかり観てみたいと思った。
魅力的だったから。
同じ社会に暮らしていても、たくさんの層と構造があって、層や構造をまたぐことは難しそうに見える。
自覚的でなくとも知らないうちに振り分けられているのかもしれない。
そうだよね、動物なんだからそれも自然なことだ、と、まとまりがつかないうちに行き止まりになって納得しようとする。
一番やりたいことに、一番時間をかけることができないことはどうにかならないのかと思いつつ、思いが強すぎるとパソコンの前でじっとしていられない。
だから、いくらかあきらめていくことも、じっと落ち着いているためにはそんなに悪くない。
それに、やりたいことに時間を費やせないのは、世界でたった一人私だけの問題ではないことも知っている。
ただそう感じる人々の一人であっても、感じることはそれなりに苦しい。
その中でも、あれをやってみたいな、という希望に少し近い場所にあるものには、手が届かなかったりする。
何者かであることよりも、何ができるのかを感じて、見ていたいのだけど。
自分も人も。
いろんな「型」が身につかないはがゆさを感じるときがあるけれど、「あなたは自分の感覚がまず大事なんです」と、感覚を持たないAIが最適解を導き出した。
なるほど、そうなんですか。
心は、肉体の一部であるのに、まるで魂みたいな浮遊する特別な、肉体とは分かれた何かのように思えるとき、肉体よりもコントロール可能なもののように説かれているような気がした。
でも、緊張をするのも肉体で、それを緩和させるのは脳に働きかける薬なので、心は脳だと思っていると私はとても脳が落ち着く。
なんでも思い通りになるよりも、思い通りにならない人生をしなやかに生きる強さがあればそのほうがいいと思った。
少し強がりかもしれなくても。
青空と日に照らされたベランダの布団を眺める。
今日私は青空を見ていると確かめる。