平日でも平日なりに混み合う昼下がりのフードコートは、客層や人々の過ごし方が、土日のにぎやかさと比べるともう少し落ち着いている。
有名なフライドチキンのランチセットを注文して、おばあさんとおばさんのあいだの二人掛けのこじんまりとした席に着く。
いい年の女性が三人並んでジャンキーなフライドチキンをお昼ご飯に食べているんだなと、通路から自分たちを眺めるように想像した。
隣で指を舐める音が聞こえた。
フライドチキンを食べる姿は、決して美しいものではない。
それを通路側を向いて食べようというのだから私も大したものだなと思った。
さっき服を見て、けっきょく何も買わなかった。
もし合えば買いたいものを試着してみて、悪くはなかったけれど、十分に持っているのを思い出したから。
試着してその姿を確認したらそれでいいかなと満足した。
その代わりに今日はフライドチキンを食べるのだ。
綺麗な服を着るのとおいしいものを食べるのを天秤にかけるのならば、それは同じくらいの重さかもしれないけれど、おいしいものを食べるほうが私には現実的だ。
誰かが自分を評価する言葉は時折聞こえてくるけれど、これは誰かのためじゃなく、世界に一つしかない私の大切な体なんですとおばさんの列に並んでチキンを頬張りながら私は至福に満ちた。
私は指を舐めなかったけれど、その気持ちはわかるくらいおいしい。
大食いチャンネルで、細くて綺麗な女の子が、がっと大きな口を開けて、上品さなど気にせず食事する動画を見ることがある。
同じだけ食べる経済力も胃袋もないんだけれど、おいしそう!と眺めるのが好きなのだ。
美しさと食欲とどちらも申し分なく満たせる人もいるんだな、という思いを含んだ目で見る。
その人の影の努力があるかどうかとかは、私は知らない。
きっと何かあるはず、とも思わない。
ただ、おいしそう、とだけ思って胃袋に運ばれてゆく山盛りの食べ物を見ていたい。
私はただの視聴者だから。
インターネットの世界では、いろんなふうにカテゴライズする言葉を見かける。
太る人と痩せる人の違い、稼ぐ人と稼げない人の違い、上達する人と上達しない人の違い──確かに刺激的で強めの言葉はおもしろいかもしれないな。
今や知らず知らずそういった言い回しの中毒になっているのかもなと思う。
ただ、二元論のどちらかに分けられないといけないんでしょうかと、心がもやもやしたら情報をぱたんと閉じてもいいんですよね。
まるで、必ずどこかに人を振り分けることが可能かのような、誰のでもない幻想を、前提を、押し付けられているみたいな気持ちにたどり着いてしまったときには。
外で街路樹の木漏れ日が揺れるのが見える。
なんてことない幸せが私の宝物だなぁとチキンを食べながらぼんやりと思った。
どうかそれが崩れませんようにと、ぼんやりとした湖の下にある不安を落ち着けた。
久しぶりのチキンは脂っぽくて、しょっぱくて、おいしかった。
スティーブン・フォスターの『ケンタッキーの我が家』が頭の中で流れる。
古き良き時代のカートゥーンが好きだから馴染みのあるスティーブン・フォスター。
CMのせいでチキンを食べても思い出す。