1 定食屋にて
「おはようございます」ドアが開き、杉原貴子が控えめで覇気のない声で朝の挨拶をしてオフィスに入ってくる。
オフィスは南向きだが、どこかぱっとしない日が差し込む。都会のビル群を臨む長方形の景色が、どことなく価値のありそうな演出をしている。ビル群の景色は、無言で価値を押し付けてくるようだ。
貴子は表情を皮膚の奥に隠し、視線は下に向けている。周囲に注意を払う余裕みたいなものがないとでも言うように。それとも、半分は彼女の選択としてあえてそうしているかのように。
「ざいまーす」奥の席からか細い挨拶が返ってきたが、返ってきたことが貴子には届かない。同僚の挨拶は届けるべき相手まで届かず、声はその場に落ちただけだった。だが本人は気にせず目の前のパソコン画面に集中している。それが彼の世界なのだから。
貴子は、自分の挨拶がまたどこにも届かずに空気に散ったのかなと薄ぼんやりとした気持ちを一瞬抱えた。
インターネットには、職場の挨拶など人それぞれだという意見が書いてあった。そうなのかも、と貴子の思考はそう割り切ることを理解したが、気持ちのほうはどうも明るくはならなかった。「仕事で気持ちが明るくなる必要はない」と物わかりのいいふうを、自分の中で装った。
午前中、貴子のチャットに向かいの席の女性からメッセージが届いた。
「よかったら今日お昼ご一緒しませんか?」ベテランのアルバイトの川崎さんからだ。モニターで姿は見えないけれど、川崎さんは無言で作業に集中している。
オフィスもこのメッセージを知らんふりするように、さっきまでと変わらない均一な時間が流れる。変わらない空気の中で、貴子にだけ妙な緊張感が走った。物理的に近いけれどこうしてチャットで話す心理的な距離感のようなものに、貴子はなかなか慣れずにいつもそわそわとする。これは現場で口語で交わしてはいけないことなのだろうかと、何か事情を読まなくてはいけない気持ちがとても負担になる。
そして今回のメッセージに限っては、さらにどんよりと気持ちが重くなった。何の用事だろうかと懸念が湧く。それに、できればもうわざわざ関わりたいと思っていなかったのだ。川崎さんだからという意味ではなく、誰とも。
ところが自分でも不思議なことに、貴子は「メッセージありがとうございます。ぜひ行きましょう」と返事をした。貴子は自分でも時々、このちぐはぐな感情についていけない。ついていけないけれど、そうすると決めてしまった以上、今日は川崎さんと昼食に行くしかない。多分それでよいのだろう。よいことにしよう、と葛藤は密かに起こる。何事もないようにそれぞれが自分のパソコンに集中している。
貴子はこの会社に勤め始めて初めて昼休みの時間を誰かと合わせ、誰かと外出をした。そういうとき、周りの人はどう思うのかなと貴子はぼんやりと考えるほうだ。でも、今日はそういう気遣いをしなくてもいいか。いったい誰に対して?と過剰な、何に対してかわからない心配を半ばかき消した。
二人がともに出ていくとき、上司は一瞬珍しい組み合わせだと言うようにちらりと見たが、特に何も言わなかった。
二人は街道沿いの定食屋に入り、川崎さんは店のシステムを親切に説明した。それぞれに食べたいものをショーケースから取り、先に会計を済ませた。
席に着き、食事をしている間も貴子は微かに身構えながらもいたってにこやかに接した。一方で微笑みの加減を調整したいという複雑な欲求にも注力していた。
川崎さんは表情は控えめで、動じないマイペースな雰囲気を持っている。冷たいわけではないが、貴子は、どことなく通じ合えない感じがしていた。
「こんなところに定食屋があるんですね。お弁当を持参することが多くて、どこにも入ったことがありませんでした」貴子が気を遣いながら話す。
「ちらほらとありますよ。ここが一番近いから時々来ます。今日は、お弁当大丈夫でした?」川崎さんは淡々と小さめの声で話した。
「はい。今週はもう適当にしようと思って」それに対して、貴子は愛想笑いする。
「そうですか」
川崎さんは何か聞きたいことがある──と貴子は考えていた。最後に楽しく過ごせることも少しだけ期待しながら、心の奥深くに警戒心を敷いている。それでも期待するのは、貴子の癖のようなものだった。
「あの、」と川崎さんは静かに切り出す。「退職なさるんですね」
「そうなんです。短いあいだでしたが、お世話になりました」貴子はよそよそしく答えた。
川崎さんはじっと貴子の顔を見たり、一瞬視線を机の上に落としたりしながら尋ねた。
「それって、ご自分でですか?それとも会社から…」控えめだけれども、気になっていたであろうことを率直に尋ねた。
「えっ」と貴子は驚いた。そして、戸惑いながら「自分で決めました」と言った。
「なんでですか?」川崎さんは純粋に聞いた。
「まあ、いろいろです。いろいろ考えた結果です」
「これからどうするんですか?」
「まだ決めていないんです」
「そうなんですね…何か気に入りませんでしたか」
「いや、自分なりにいろいろ考えることがあって」
「そうですか…でもいいところに行くには二、三年修行が必要じゃないですか」
「はい。それも充分考えました。それでもです」
貴子は、のど元まで出かける本音を懸命に抑えた。川崎さんが何をしたいのかわからなかったが、ただ自分はその場に座っていてなんだか落ち着かなかった。いや、さっきは一瞬、楽しかったが。
川崎さんはそんな貴子の様子を見ながら、話を止めてそのまま食事を続けた。
「そうですか、ペットが亡くなるというのは悲しいですよね。家族の一員ですもの」食事のあとしばらく話し込み、貴子は川崎さんの一身上の事情を聞いて共感するそぶりを見せた。貴子自身が傷つきやすくなっていたので、そぶりなのか本当に共感しているのか貴子にすらわからなかったが、川崎さんは貴子の様子に感じるものがあったのか、「私が前に勤めていた小さな会社のアルバイトなんですけど、よかったらどうです?」と切り出した。
「ああ…どんな感じのお仕事か聞いてみてもいいですか?」貴子は思いがけない提案にぎょっとしながらも尋ねた。
川崎さんはその会社の説明をし、貴子は聞きながらもそこに勤める選択肢を机の上に並べることはなかった。それなのに、貴子は断り切れずに連絡先をもらうことになった。川崎さんはカバンの中を探したあと、机の上の割りばしの袋に目をつけて、そこに担当者のメールアドレスを書いた。
「ありがとうございます」貴子は言った。
「あと、杉原さんは、XXのご経験があるみたいだから、XXはどうかなと思います。今のようなやりがいとは違うかもしれませんけど」川崎さんは貴子が戸惑っていることには気づかずに言った。
「…参考にします」貴子はついには、なぜ自分が気を遣い続けているのか見失った。本当は自分のプライドも、たった今とても痛んでいる。
川崎さんは貴子の繊細な変化を気にしていない様子だったが、貴子のほうは早く昼休みを終えたかった。
貴子は、なんだか自分がかっこ悪く見えた。
2 帰り道
最終日は夕方頃から雨が降り出した。貴子は雨の中帰ることの面倒さよりも、今日ですべてが終わることに気持ちを向けた。
定時の少し前、貴子は一人一人に挨拶をした。上司は貴子の仕事ぶりに「助かりました」と軽く微笑み、「では」と颯爽とオフィスを後にした。
貴子が挨拶を済ませてオフィスを出るとき、新人の営業マンとタイミングがかぶって同じエレベーターに乗り込んだ。
ビルを出ると雨はまだそれなりに降っており、二人は傘をさした。貴子が彼の向かう先が別の駅であることを願ったのも空しく、二人は同じ方向へと歩き始めた。
「なんで辞めちゃうんですか?」新人営業マンは遠慮なく聞いた。
「いろいろ考えてのことです」
「ぼくも今かなりきついんですよね。正直言って上司ガチャに外れました」と彼は言った。
貴子はなんとなく、普段の彼の仕事ぶりや上司との関係性から、この話の展開を予想していた。
「面接のときは意気投合したんですけど、いざ始まってみたら何も教えてくれなくてほんと困りますよ」
貴子はさっき退職をしたばかりだ。でも何故か新人の愚痴を聞いており、まだ仕事から解放されていないようだと思った。
「そっちの部署のXXさんは優しそうじゃないですか。それとも、裏の顔があるとか。なんで辞めちゃうんですか?」彼はまた遠慮なく聞いてきた。
「まあいろいろです」貴子は彼の無遠慮から逃れる術はわからないが、適当に交わした。
「でも、働いていかなきゃいけない」と彼はしみじみと言った。
貴子は「そうね」と心の中で思った。多分彼は、彼女が自分よりずっと年上であることに気づいていないらしかった。
「ぼくは辞めませんね」彼は意気込んで言ったが、貴子は彼が今後どうするのか興味が湧かなかった。「頑張ってくださいね」と、当たり障りなく言った。
貴子の頭の中ではもうすべては終わらせたことだった。新人の苦労はわかってあげたいことでもあり、もう終わらせた以上は愚痴を聞くというのは無給の労働でしかないとも思った。改札を抜け階段をのぼりながら横でそれが続く。電車も同じ方向であることに更なる絶望を感じる──。
彼女は駅のホームに着くなり、「あ、私これに乗るんで」と彼に判断の余地を与えずに出発間際の普通電車に駆け込んだ。
貴子は、自分の冷たさにしばし拍手を送った。ホームに残された彼は、一瞬考えて貴子の前から歩き去った。
ドアが閉まり、電車が出発した。