猛暑日、美術館にて

夏の暑い日、日傘をさしても日差しが突き抜けて全身にじりじりと届く。
汗ばむだけでも不快さが伴うのに、日焼け止めでさらにじんわりとしている。
都会から離れた街を行き交う人々を、私は値踏みするように見た。
値踏みという言葉が適切かはわからない。
私は都会が好きなわけではないけれど、都会と都会ではない街を比べることがある。
自分のその眼差しが、自分を突き刺す。
自然発生的に生まれるが、止めるのは私だ。
比較しているとき、その裏側には、いつかどこかで傷ついた経験が潜んでいるのかもしれない。
無傷であれば、今街や人々を値踏みすることなく、ただ過ぎていく景色をそのままに受け止めていくことができるのかもしれない。
それが、人としての健全さかどうかはわからないけれど。
健全さとは、真っ白であることではなくて、白くない自分を認めて観察できることも含んでいると思うから。
私は自分のゆがみと悲しみを日常的に受け止めていく。
それなりの体力がいる。
日差しはさらに不快さを増加させるように燦々と注ぐ。
熱い湯船につかったときみたいな体の反応がした。

これは私がどう感じたかであって、対象についての考察ではない。
『大正イマジュリィの世界』について、予備知識はない。
「イマジュリィ」は何語で何なのかすら調べるのを忘れて展示室に入った。
何も調べる間もなく来てしまったから、そのまま受け止めようと思った。
博物館ならば、その場で体系や順序を理解しながら進めばよいと思えるかもしれないけれど、美術的な何かを見るときには、その背景を知らないと受け止め方がわからないのではないかと思った。
科学的な事実以外の何かを受け止められるだけの余白を、自分の中に用意していかないとでも言うような感じがしている。
でも、どうだろう?作品を見るときに、解釈は必要なのだろうか?
ただ、色がきれい、配色が心地よい、質感に惹かれる、模様の連なりに見入ってしまう───例えばそうやって対象を見るのでもいいのだと思った。
というか、あるデザイナーの展覧会を見に行ったときに、私は何をどう見ればよいのかわからなくて解説を一生懸命に読んで理解しようとした。
でもたぶん、「なんかこのデザインが好き」でよかったのかもしれない。
私は物事を「理解したい人」になっていると気づく。

昔、物事をふんわりと感じることは自然で何も怖くなかった。
でも大人になって、論理と言葉で決めつけられ、押しつぶされ、言い負かされる経験が積み重なると、自分の言葉や、言葉として形成されなかった感情は、胸の中に残り暗雲になった。
私は心地よくふんわりと感じることができなくなった。
論理が優位という対立の中で、自分の人としての感性や認知もあまり信じていない。
代わりに、対抗するような言葉と理解を求めていった。
何かを理解したいことには、自分の認知への疑いと痛みが伴っている。
だから、楽しくない。
目の前には見るべき造形がある。
綺麗で魅惑的なイマジュリィを見ているというのに、私はそれが何者かを理解したがっている。

すぐに通り過ぎる作品もあった。
だけど、立ち止まって忘れないようにまじまじと見る作品もあった。
その行動によって、ああ、私はこれが気になるんだ、とわかることが嬉しかった。

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